Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
特別企画、大変興味深く拝見させて頂きました。少年が死ぬ事が当然と考えていたとは、計り知れない事です。
私の意識の中では想像しがたい事です。
いいお話でした。今度一晩話を聞いて欲しいです。夏休みしっかり取ってください🎵
はい、先生となら徹夜で話が聞けますね。
並木さん、貴重な動画ありがとうございました過去を忘れる事なく、より良い未来を築くことが我々の責任、使命ですね。fG
ドイツの戦後も厳しかったでしょうね。世界大戦に2回続けて敗れ、賠償金や復興事業など、国も分割され日本以上に苦難の道のりではなかったのでしょうか。fY
現在の平和の尊さを改めて痛感しました。ありがとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。
素晴らしい企画、ありがとうございます
今回もありがとうございました。今の平和な横浜で生きさせてもらっていることを、先人の皆様に思いを馳せながらこれからも頑張っていきたいも思います。
実体験に基づく貴重なお話、大変ありがとうございました。
お疲れ様です。 私も弘明寺商店街や伊勢佐木町の傷痍軍人は子供の頃良く目にしました。 この動画であの方達はその後どんな人生を送ったのかなども考えてしまいました。 ホントにとても良い動画でしたありがとうございます。
国の保護などもあったと思いますが、あまり知られていませんね。
いつも楽しみに拝聴してます。私の父も昭和6年横浜生まれで葛城先生とほぼ同年です(2014年没)。志願して狭き門の少年航空隊に入隊していたほど、まさに軍国少年でした。今日のお話で父の8月16日以降の生きざまを想像することができました。すばらしい企画でした。そうそう、昭和40年代の初頭ごろまで傷痍軍人が先代の横浜駅の東西連絡地下通路でアコーデオンを片膝で弾いていたのを幼少期ながら鮮明に憶えてます。
お父様は先生と同じ世代ですか、軍国意識から戦後の世界へは大きな意識変換が必要だったのかも知れませんね。
この動画はとても貴重だと思いました。
この方、93だと思うのですが頭が冴えてらして不思議な位です。良いお話をありがとうございます。僕も神戸三宮地下道辺りで傷痍軍人を見た時は衝撃でした。
先生のお話はとても明晰ですね。ホントに信じられないほどです。
貴重なお話ありがとうございました。8月15日に思いを馳せることはあっても、その直後のことを詳しく聞いたのは初めてかもしれません。
そうですね、タイトルもあえて「8月16日」としました。
今回もためになるお話をありがとうございました。葛城先生、頭が切れてその頃の事が良くわかったと、当時を体験したことのある母も申していました。母から、黄金町あたりの死体の山を見ながらB29から逃げ惑った話など何度となく聞かされております。今現在の平和で豊かな生活は過去の上に成り立っていることを忘れないようにしたいですね。これからも暑さが続きます。並木さんも無理なさらずお体ご自愛ください。
お母様とご覧いただきましたか、ありがとうございます。B29が間近に迫ってくる姿などを見たら本当に恐ろしいでしょうね。
貴重な話しをありがとうございます。
並木さん お元気な様子何よりです暑い中貴重な動画編集をされてたんですね亡くなった母がよく言ってましたが「日本がもし戦争に勝ってたら軍人が権力を持ち 今の本当の平和はあったかどうかわからなかった」と言ってました戦争は絶対にダメです戦争でうるものなんか何も無い それを強く感じた動画でしたまだ暑い日が続きますが お身体に気をつけて9月の配信楽しみに待ってますありがとうございました
戦争って負けると大変ですが、勝っても犠牲に見合うようなものは無いですね。
特別企画、ありがとうございます。たまたまテレビで、葛城先生と同い年(昭和5年生まれ)の男性が、731部隊の少年兵として現場で働いていて、謝罪のために中国へ訪問されたのを観ました。死ぬ覚悟でいたという先生の言葉を聞いて、中学生くらいの思春期の子どもに対する戦争や社会の影響が、いかに大きいものかが分かりました。横浜や日本が、これからも平和なままであってほしいと、改めて思いました。
私も先生の「18まで生きることは無い」という言葉に衝撃を受けました。当時はそれが特別な事では無かったんですね。
来年のこの時期に、続編など企画いただけるとありがたいです。平和を維持していくためにも、この時期は、当時のことに思いをはせる機会をもつことが大切だなと感じます。番組最後の並木さんのコメント、大切にしたいです。
葛城先生にお尋ねしてみましょう。
これは貴重な体験談ですね並木さんのイラストも見れてよかったです
ラバウルばあさんはよく描けました。
大変貴重な生きた証言をありがとうございます昭和の後半に生まれた私は、子供の頃は戦争は海の向こう側の話と思っていました歴史の授業で学ぶよりも実際の市民の生活や思いに触れることが出来て、大変興味深く動画を視聴致しました当事者に聞かなければ想像できないこともありましたこの動画が多くの人に視聴され、戦争に翻弄された人々に思いを馳せる機会になればと願います
イメージで思っている事と現実とは違っている、なんてこともあります。私も先生の話を聞きながら、ああそうだったのか、と思う事もありました。
とてもいいお話でした。先生、並木さん、ありがとうございました。終戦10年後の生まれの、もうじき70歳の私としては、とてもただの「お話」とは思えませんでした。このような方々の力があってこそ、今ここで私が生きているのだと思うと非常に感慨深いものがあります。
実際に体験された方から聞く話は大変リアリティがあります。
いつも家族で楽しみに拝見しています。葛城先生の貴重なお話をありがとうございました。88歳の母から小田原の大雄山最乗寺に学童疎開をした話をずっと聞いています。戦争体験が記憶に刻まれているのは悲しいことですね。いつか横浜の子供達の集団疎開の考察をしていただけるとありがたいです。
先生は疎開はされていませんが戦後一時期静岡県で暮らしました。その時の話も聞いてみたいですね。
貴重なお話、ありがとうございました。とっても興味深く拝聴しました。以前の動画で葛城先生が出演なさった時のこと、覚えています。今年は戦後79年、考えてみたら、まだ「最近」と言ってもいいですよね、私は戦争を知りませんが、生まれて育った時は、終戦直後と言っても大袈裟じゃない時期だったのだなあ、何も知らずに幸せに育ちましたが、戦争で傷ついた人たちがまだまだ多くいたんだなあ、と思いました。先生も、いつまでもお元気でご活躍いただきたいです。
近現代の流れから言えば「最近」ですね。私の親たちが育った時代です。つい最近こんな事があったんですね。
父が葛城先生と同い年です。どんどん少なくなる世代の貴重なお話を、今のうちにたくさん聞いておかなければと思っています。このような企画をどうもありがとうございました。今後もぜひお願いします。
ありがとうございます。葛城先生にもお伝えしたいと思います。
これは凄い貴重なお話を伺えました。ありがとうございます。地元横浜の終戦後って触れる機会があまりないですから新鮮でした。夏休み ごゆっくり(笑)
本当に貴重な体験をすることができました。
素敵な動画をありがとうございます。私の母も伊勢崎町の長屋で育ちました。私も本牧のフェンスの向こうのアメリカが中学時代の原風景です。葛城先生のお話には引き込まれました。また是非このような企画の続きを楽しみにしております🤲
葛城先生のお話は淀みなく明解です。私も引き込まれてしまいました。
大変貴重なお話でしたね。私の母は都内でしたが勤労動員で工場で働いていました。終戦は、あー終わったんだ、という喜びだったと言っていました。
「終戦」というのはホッとした人が多かったんですね。
葛城さん、貴重なお話しありがとうございました。
素晴らしい特別企画動画をありがとうございます。葛城先生のお話しはとてもわかりやすく当時の様子が目の前に見えるようでした。玉音放送を聞かれた時の先生の心情には心打つものがありました。お話しを引き出す並木さんのインタビューが素晴らしかったです。昭和四年生まれの亡父は根岸森林公園近くに住んでおりました。疎開をしていなかったので遠くの空き地に焼夷弾が落ちるところを庭木に登って見ていたそうです。他の方も書いておられますが、幼少時代、横浜駅の東西通路でアコーディオン弾きの傷痍軍人の方の姿を今でも覚えています。戦争体験を年々語り継ぐ方が少なくなっていく今、葛城先生のお話しを聴けた我々が次世代に戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えて行かなければと気付かされました。ラバウルおばさんのイラスト、暖かく深みがありおばさんの生き様が伝わってくるようです。9月のご投稿を楽しみにしております!
先生のお話は尽きません。まだまだ活発に活躍されています。体験談にも感服しましたが自己を顕在化させるエネルギーは、もんのすごいです。
凄く貴重な記録動画だと思います。富岡空襲も並木さんの動画で知りました。厚木の航空隊の反乱の話も初めて知りました。事実を飾らず語ってくれる戦後の話はもっと知られてもいいですね短期戦なら勝つって山本五十六かよってね、
教科書は最大公約数的な事実ですが、個人の思いはそれぞれですね。
特別企画、お疲れ様です過去動画『山手を歩く 戦争が終わって生まれた子供たち』は、今でも印象に残ってますが、戦後の横浜の混乱期の生の証言は、大変貴重で興味深かったです
実体験の話はリアリティを感じます。
お疲れ様です。タクシードライバーの漫画、また読みたいです!
おお、ありがとうございます。
並木さん、夏休み中なのに素晴らし動画をありがとうございます。台風7号が近づいています。気をつけてくださいね。
雨が降っています。本日(16日)は要注意ですね。
当方50代、戦争は遠い昔の歴史の出来事と思っていましたが、メリーさんや傷痍軍人の姿はしっかりと幼少期の記憶にあり、実は自分も「終戦後」を生きた世代なのだと気付かされました。貴重なお話を有難うございました。
そうですね、まだそんなに遠い昔の事では無いと思います。
貴重な原体験であり、史料動画だと思います。当時の国民のリアルな想いには説得力があります。現代人としては、ただただ最後の並木さんのナレーションに共感するのみです。大変興味深く拝聴することができました、ありがとうございました。それにしても先生のご説明や活舌は、年齢からは想像つかない程お若く理解がしやすいですね。素晴らしいです。
先生の話は論理的で非常にわかりやすいです。記憶力も私などよりずっと確かです。
素晴らしい企画でした。郷土史家先生のお話、とても興味深く聴きました。とても貴重な証言ですね。数年前に急逝した母は横浜出身で一生の大半を横浜で過ごした浜っ子です。戦争の話もよくしてくれました。私自身も結婚するまで横浜市民だったので愛着はハンパないです。野毛の闇市のこと、メリーさんなどなど実際に見たわけではないのに感慨深いです。戦争を実体験した人たちが次々と鬼籍に入ってしまい、語り継ぐ人がいなくなると戦争の記憶も風化してしまうのでは、と案じています。
終戦直後の野毛などは興味があります。怖いけどちょっと歩いてみたいですね。
昭和20年8月、23歳の私の母も川崎の東芝で働いていました。母は玉音放送を職場で聞き戦争が終わったと皆で喜び合ったそうです。戦後は通勤経路だった伊勢佐木町を歩くたびにあっという間に飛行場ができたりカマボコ兵舎ができたりして驚いた、不二家のビルの上から米兵たちが路上の日本人をからかうので嫌だったと語っていましたね。「銀星通り」という超懐かしい言葉がでてきてしんみりしました。葛城さんのお元気なこと素晴らしいです。これからもお体お大事になさってください。
川崎には軍需工場が多かったんですね。飛行場もカマボコ兵舎も今の横浜からは想像もつきません。先生は大変お元気ですよ。
生々しい体験談で、教科書には書かれていない貴重なお話しでした。並木さんも良い夏休みをお過ごしください。😊
先生の話を聴けたことはいい経験になりました。
並木さんはじめまして!いつも癒されております。また今夜は貴重なお話ありがとうございます。✨横浜〜ありがとう😂
ご覧いただきありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
とても興味深いお話をありがとうございました。へぇ!ほぉ!というお話も多く、とても面白かったです。私の亡父が、昭和5年生まれ、県立三中に通っていたので繋がっているのかな?と、親近感も覚えました。何処かでまたお話を伺うことができたら、と思います。
昭和5年、三中というと葛城先生の同級生ですね。
並木さん、先生ありがとうございました。以前葛城先生から直接「やぶにらみ磯子郷土史」を購入しており、一度先生の講演をお聞きしたいと思っていました。並木さんが紹介してくださって先生の講演会があることをしりました。早速申し込みをしたいと思います。猛暑ですので、並木さんもゆっくり夏休みをとって充電してください。また9月の動画を楽しみにしております。
先生の講演は毎月磯子の社会教育コーナーで行われています。HPには講演の事は載っていないようなのでハガキでの問い合わせ・申し込みがいいと思います。今充電中ですが、気のせいか放電されているみたいです。
葛城さんお話ありがとうございます。50数年前は横浜駅西口から東口に抜ける地下道にも傷痍軍人の方がいました。近所のお年寄りは、昔の西口は砂利の山だったとも言っていました。
昔の西口には石油会社などがあり、資材も多く置かれていたようですね。
びっくりしました。こんな時間に!と思ってしまいました😊当日生きていた方の話には納得しますね。凄い方ですね。近場の事が分かってきて嬉しかったです。台風の雨が降りだしました。今はこちらが怖いです🌀お休みなさい。
タイトルが「8月16日」という事で16日の午前零時に公開しました。雨、降ってますね。
検索したところ、葛城先生の御著書が、横浜市の中央図書館、磯子図書館などに、20数点所蔵されていることが分かりました。岡村をはじめとした磯子区や根岸などの郷土資料のようで、とても興味深いです。読んでみたら、動画で伺ったお話の内容について、理解が深まりそうです。
私も先生を知るきっかけとなったのは「やぶにらみ磯子郷土誌」という著作でした。
並木さんこんにちは今回の葛城先生のインタビューは大変興味深いお話でした子供心に、なんとなく覚えている事、伊勢佐木町の裏のアメリカ兵のかまぼこハウス、飛行場があったんですか?終戦の玉音放送は、当時疎開していた父母の故郷の宮城県で聴いても、意味は分からなく、大人たちが日本が戦争に負けた!と騒いでいましたまだまだ猛暑が続く中ゆっくり英気を養いませ。
飛行場は若葉町にありました。5年間くらい使用されたようです。
とても勉強になりました。貴重なお話でしたね☆この動画自体、市立中の現代社会の授業の映像教材に、なりますね👍暑い中の撮影、お疲れ様でした!次回アップまで、Take it easy〜🎐🏖️🍧
先生は話題が豊富なのでまだまだ色々なテーマでお話をうかがう事が出来そうです。
戦争体験者の身近な岡村の話を聞けて良かったです、実際色々な考え方をされてた学校の先生が結構いたのですね、私の生まれ育った滝頭、岡村の事を先生の話なら私も一晩中聞きたいです。傷痍軍人さん、メリーさん私も見かけました。
先生の話は整然として明瞭なので聞いててよくわかります。
弘明寺の映画館懐かしい!私は昭和30年生まれです、小学生の頃はよく弘明寺商店街へ買い物に母と行きました、松葉杖の兵隊さんも見掛けました、まだまだ貧しい時代でしたね。映画館で加山雄三さんの若大将シリーズを観ました!つい懐かしくなり書かせて頂きました😂
私はゴジラを見ました。銀星座?観音座?橋のたもとの映画館には何度も行きました。
並木さん、お早うございます。 新作を今か?今かと待ちわびて居ました。「夏休み中でも、特別企画!」と言う本編はとても面白く有意義なお話しだったと思います。昭和24年生まれの私が思い出す「戦後」と言えば、葛城先生のお話しにも出て来た「傷痍軍人」達の姿を渋谷駅前で沢山見た事でしょうか。小学校に上がる前ですから昭和27~8年頃でしょうか・・・。渋谷駅前?と言う事は東横線経由で母の実家が在る「黄金町」へ行く時だったのか?或いは桜木町の叔母の家に行く時だったか?その後の強烈な想い出というと現在の武蔵小杉辺りと、本牧の内陸側に沢山連なっていた「米軍宿舎」でしょうか!バイク・車に乗れる年になってからの「記憶」ですから現在でも鮮烈に頭の中に刻まれています。戦後生まれ・団塊世代の私たちにとって「戦争」は何だったんでしょうか?何はともあれ、「75年」も生きて来られたことを「感謝」するだけの2024年8月16日で御座います。葛城先生のHP、早速拝読しに行きます!
傷痍軍人の姿は私も微かに覚えています。あの頃はまだ「戦後」の時代だったのでしょうか。
ドウなんでしょうね~?「戦後?」と言われても地方都市ならいざ知らず、東京生まれの私には全くわからないでした!物心つく頃には自宅の周りは建物ばかりでしたし、傷痍軍人も含めて「戦後」を引きずって居る人達は見かけましたね。葛城先生のような「戦中派」の方とは全く違った「人種」なのかも知れません!
@@nick浜オヤジ 昭和31年に「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれましたが、80年近く経った今も「戦後」という人がいます。時代の線引きも人それぞれですね。
それこそ、葛城先生の仰る「線引き」次第で見え方も考え方もまるで違うことになって仕舞いますね!
並木さん❤こんばんは特別企画嬉しいですそして、また、並木さんの絵を拝見させていただき嬉しかったですラバールばあさんの話しやメリーさんの話しも楽しかったです
ラバウルばあさんの歌を聞いてみたかったです。
今年94歳の方がお話されているようにとても思えません今認知で施設にいる87の父親から、戦中•戦争直後の体験談等、結局聞けずに終わりました語り継ぐ者達も努力しなければなりませんね
先生の話は明瞭で聞いていても非常にわかりやすいものでした。
何時も楽しい企画ありがとうございます。亡き父親と同じ昭和5年生まれの葛城先生、矍鑠たる語り口素晴らしいです。こうした過去歴史を我々が伺い、後世に伝えていくことはとても重要なことだと感じます。ところで、戦時中の学校の様子も各校によって随分違っていたんですね。父が通っていた中学は退役将校が赴任していて、チョッとしたことでサーベルの鞘でコツっとやられていたそうです。父が中学2年生の富士の裾野で受けた軍事教練の写真が家に残っていて、ヒョロヒョロの中学生が伸長りょりも長い木製の模擬銃をもっている姿が印象的でした。
軍人が教練を行う学校は大変だったと思います。中学生も辛かったでしょうね。
先生は御年94、5でしょうか!!私は仕事柄お年寄りと触れる機会が多いのですが、本当にしっかりされてて驚きました。どんな秘訣があるんでしょうかね。終戦直後のリアルを知る先生の目には、今のモノであふれる横浜の街はどんなふうに映っているんですかね。
先生は今年94才ですね。足腰もしっかりしています。酒もたばこも嗜まれるようです。正にスーパー爺さん(失礼)です。
この時間に珍しいですね戦後79年40年前は、校長先生含め先生の中に空襲体験した人が当たり前のようにいました。自分には、お爺さんがいません。存在してましたが、(父方)戦争に行って帰って来ませんでした。戦争に行きたくなかった訳ではなく、志願して行ったみたいです。当時お婆さんは、大正15年産まれ浅間下に住んでました。家に空襲を(焼夷弾)もろに喰らって近くの神社の防空壕に逃げて助かりました。お婆さんの家族は、造船所で働いてたので、造船所には、落ちてこなかったと言ってました。お婆さんのお姉さんの旦那さんは、帰って来ましたが、マラリアに掛かり耳が聴こえなくなって(少し聴こえてた)話すのが大変でした。
戦争体験者が2世代前、3世代前となりました。私も子供の頃は戦争の話をする大人もいましたが。今回は貴重な話を聞く事が出来ました。
私の上司の本牧の方に戦後直後の話をたまに聞きました、子どもの頃は米兵にチョコレートをもらったり色々楽しかったし米兵もいい人も多かった、以外と楽しい時代だったとおっしゃってました。
世相には色々な側面がありますね。
道夫さん、お疲れ様です☆ゆっくり夏を過ごされているのかと思ったら特別企画ですか!葛城先生の貴重なお話が聞けて感謝しております。戦後すぐの横浜と今の横浜ってこんなにも違うんだと戦争を知らない私にとって驚きばかりです。大変貴重な動画を配信して頂きありがとうございました😊まだまだ暑い日が続きますが道夫さんもお身体に気をつけてくださいね♪
急遽、先生とお話しできる機会を得る事が出来ました。他のテーマでもお願いしたいですね。
ウチの親が25年に横浜にで出来て商売始めて会社設立しました。こう言う語りべは横浜で生まれ育った自分や後世に語られる事が大事だと思います。
夏休みにいいプレゼントをありがとうございます!😄昔、岡村のそばに住んでいたことがあります、懐かしい土地です😃うちのオヤジは、関東軍で満州にいたそうです🙂終戦間近にロシアの戦車が侵攻してきて降伏、シベリアに抑留され、幸運にも帰還したそうです😄父が最後の戦を放棄し、降伏したおかげで私は生まれました!😊許してはならないのは、戦争を起こした愚かな権力者たちです😠平和運動なんかより、戦争責任を追及すべきだと思いますね!😡
岡村はいい所ですね。天満宮にもお参りに行きました。
玉音放送を聞いた時の心境や厚木の航空隊の反乱時のビラ撒きや戦後の旧軍に対する社会の変化等の学校では習わない、こう言った話しを後世に残せるのはRUclipsの良い所ですね。オリンピックメダリストが、最近は知覧の平和会館に訪れたいと言うのが話題になりましたが、終戦記念日だけでなくこう言う話しが当たり前になれば、もっと政治に興味を持つのでは無いかと思います。普段の並木さんの街紹介とはまた違い、会話のながれからスムーズに聞き出すセンスの良さも、今回の動画で光ってますね!と、褒めたので…お嬢様達とのお食事会呼んで下さい、当方アレルギーや好き嫌いございませんw
いや~、お褒めいただきありがとうございます。食事会ですか、いいですねえ。最近は忙しいのか、私が誘っても、ちっとも来てくれません。
当時のオンリーさんやら、米兵相手に生きてきた女性たちが今や、おばあさんになりました。磯子、杉田はなかなか色街の名残はありますね。ハーフというブームがエンターテイメントの戦後にもてはやされましたが、なにかつらいものは否めません。
磯子の色街は海軍関係者がよく利用していたようです。
先生直接のお話から、横浜が現在まで、おしゃれな街が残っているのは、人びとの意識の高さだったようですね、東京は余所者の街、金儲けの再開発で歩けるところが無くなりました、また、横浜に行きたくなりました、よい、お話でした
横浜はいい街ですね。
暫くおやすみされると聞いていましたので動画がアップされていて驚きつつ拝見しました。有難うございます。横浜新参者ですので、葛城先生のお話はリアルで座布団爆弾?の辺りは何とも言えない気持ちで聞いおりました。機会があれば葛城先生の講演など、聞いてみたいです。
先生は毎月磯子の横浜市社会教育コーナーで講演されています。興味があればぜひ。
@@namiki-michio コメント拝見するのが遅くなりました。情報有難うございます。早速、探してみます。有難うございました!
傷痍軍人とメリーさん、伊勢佐木町で見た記憶がかすかにあります。わが母校、関東学院が憲兵隊ににらまれていたとは知りませんでした。憲兵の「神」とキリスト教の「神」は明らかに違う。あの学校、ブルジョア階級の子供が多かったかと。
関東学院に残っている歴史的校舎が何となく物語っているようにも思えます。
子供に座布団爆雷か。相当危ない国だな
その世代は軍国主義から民主主義にかわり、その地域で教わってることも違ったんですね。昭和5年生まれの母は歴代の天皇全ていえると言ってた。自分は歴史が苦手さっぱりわかりませが、急速に世の中が変わった時代だったのかな。
昔の人は勅語を暗唱していたようです。歴代天皇も暗唱されたようですね。
横浜はアメリカとの開港で出来た街なので生のアメリカの情報を知っている場合が多く、戦争に勝てると思っていた人が他所に比べて少なかったと聞いた事があります。国民酒場の看板は90年代にはまだ見かけました。
看板だけなら「国民酒場」は今もありますね。
@@namiki-michio さま そうですか!私の住む界隈では無くなりましたが、流石に色々な所をお訪ねになっている成果ですね。
79年目ではありません。79年後です。
特別企画、大変興味深く拝見させて頂きました。
少年が死ぬ事が当然と考えていたとは、計り知れない事です。
私の意識の中では想像しがたい事です。
いいお話でした。
今度一晩話を聞いて欲しいです。夏休みしっかり取ってください🎵
はい、先生となら徹夜で話が聞けますね。
並木さん、
貴重な動画ありがとうございました
過去を忘れる事なく、より良い未来を築くことが我々の責任、使命ですね。fG
ドイツの戦後も厳しかったでしょうね。世界大戦に2回続けて敗れ、賠償金や復興事業など、国も分割され日本以上に苦難の道のりではなかったのでしょうか。fY
現在の平和の尊さを改めて痛感しました。ありがとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。
素晴らしい企画、ありがとうございます
ご覧いただきありがとうございます。
今回もありがとうございました。今の平和な横浜で生きさせてもらっていることを、先人の皆様に思いを馳せながらこれからも頑張っていきたいも思います。
ご覧いただきありがとうございます。
実体験に基づく貴重なお話、大変ありがとうございました。
ご覧いただきありがとうございます。
お疲れ様です。 私も弘明寺商店街や伊勢佐木町の傷痍軍人は子供の頃良く目にしました。 この動画であの方達はその後どんな人生を送ったのかなども考えてしまいました。 ホントにとても良い動画でしたありがとうございます。
国の保護などもあったと思いますが、あまり知られていませんね。
いつも楽しみに拝聴してます。私の父も昭和6年横浜生まれで葛城先生とほぼ同年です(2014年没)。志願して狭き門の少年航空隊に入隊していたほど、まさに軍国少年でした。今日のお話で父の8月16日以降の生きざまを想像することができました。すばらしい企画でした。そうそう、昭和40年代の初頭ごろまで傷痍軍人が先代の横浜駅の東西連絡地下通路でアコーデオンを片膝で弾いていたのを幼少期ながら鮮明に憶えてます。
お父様は先生と同じ世代ですか、軍国意識から戦後の世界へは大きな意識変換が必要だったのかも知れませんね。
この動画はとても貴重だと思いました。
ご覧いただきありがとうございます。
この方、93だと思うのですが頭が冴えてらして不思議な位です。良いお話をありがとうございます。
僕も神戸三宮地下道辺りで傷痍軍人を見た時は衝撃でした。
先生のお話はとても明晰ですね。ホントに信じられないほどです。
貴重なお話ありがとうございました。
8月15日に思いを馳せることはあっても、その直後のことを詳しく聞いたのは初めてかもしれません。
そうですね、タイトルもあえて「8月16日」としました。
今回もためになるお話をありがとうございました。
葛城先生、頭が切れてその頃の事が良くわかったと、当時を体験したことのある母も申していました。
母から、黄金町あたりの死体の山を見ながらB29から逃げ惑った話など何度となく聞かされております。
今現在の平和で豊かな生活は過去の上に成り立っていることを忘れないようにしたいですね。
これからも暑さが続きます。並木さんも無理なさらずお体ご自愛ください。
お母様とご覧いただきましたか、ありがとうございます。B29が間近に迫ってくる姿などを見たら本当に恐ろしいでしょうね。
貴重な話しをありがとうございます。
ご覧いただきありがとうございます。
並木さん お元気な様子何よりです
暑い中貴重な動画編集をされてたんですね
亡くなった母がよく言ってましたが
「日本がもし戦争に勝ってたら軍人が権力を持ち 今の本当の平和はあったかどうかわからなかった」
と言ってました
戦争は絶対にダメです
戦争でうるものなんか何も無い
それを強く感じた動画でした
まだ暑い日が続きますが お身体に気をつけて9月の配信楽しみに待ってます
ありがとうございました
戦争って負けると大変ですが、勝っても犠牲に見合うようなものは無いですね。
特別企画、ありがとうございます。たまたまテレビで、葛城先生と同い年(昭和5年生まれ)の男性が、731部隊の少年兵として現場で働いていて、謝罪のために中国へ訪問されたのを観ました。死ぬ覚悟でいたという先生の言葉を聞いて、中学生くらいの思春期の子どもに対する戦争や社会の影響が、いかに大きいものかが分かりました。
横浜や日本が、これからも平和なままであってほしいと、改めて思いました。
私も先生の「18まで生きることは無い」という言葉に衝撃を受けました。当時はそれが特別な事では無かったんですね。
来年のこの時期に、続編など企画いただけるとありがたいです。
平和を維持していくためにも、この時期は、当時のことに思いをはせる機会を
もつことが大切だなと感じます。番組最後の並木さんのコメント、大切にしたいです。
葛城先生にお尋ねしてみましょう。
これは貴重な体験談ですね並木さんのイラストも見れてよかったです
ラバウルばあさんはよく描けました。
大変貴重な生きた証言をありがとうございます
昭和の後半に生まれた私は、子供の頃は戦争は海の向こう側の話と思っていました
歴史の授業で学ぶよりも実際の市民の生活や思いに触れることが出来て、大変興味深く動画を視聴致しました
当事者に聞かなければ想像できないこともありました
この動画が多くの人に視聴され、戦争に翻弄された人々に思いを馳せる機会になればと願います
イメージで思っている事と現実とは違っている、なんてこともあります。私も先生の話を聞きながら、ああそうだったのか、と思う事もありました。
とてもいいお話でした。先生、並木さん、ありがとうございました。終戦10年後の生まれの、もうじき70歳の私としては、とてもただの「お話」とは思えませんでした。このような方々の力があってこそ、今ここで私が生きているのだと思うと非常に感慨深いものがあります。
実際に体験された方から聞く話は大変リアリティがあります。
いつも家族で楽しみに拝見しています。葛城先生の貴重なお話をありがとうございました。88歳の母から小田原の大雄山最乗寺に学童疎開をした話をずっと聞いています。戦争体験が記憶に刻まれているのは悲しいことですね。いつか横浜の子供達の集団疎開の考察をしていただけるとありがたいです。
先生は疎開はされていませんが戦後一時期静岡県で暮らしました。その時の話も聞いてみたいですね。
貴重なお話、ありがとうございました。とっても興味深く拝聴しました。
以前の動画で葛城先生が出演なさった時のこと、覚えています。
今年は戦後79年、考えてみたら、まだ「最近」と言ってもいいですよね、
私は戦争を知りませんが、生まれて育った時は、終戦直後と言っても
大袈裟じゃない時期だったのだなあ、何も知らずに幸せに育ちましたが、
戦争で傷ついた人たちがまだまだ多くいたんだなあ、と思いました。
先生も、いつまでもお元気でご活躍いただきたいです。
近現代の流れから言えば「最近」ですね。私の親たちが育った時代です。つい最近こんな事があったんですね。
父が葛城先生と同い年です。どんどん少なくなる世代の貴重なお話を、今のうちにたくさん聞いておかなければと思っています。
このような企画をどうもありがとうございました。
今後もぜひお願いします。
ありがとうございます。葛城先生にもお伝えしたいと思います。
これは凄い貴重なお話を伺えました。ありがとうございます。
地元横浜の終戦後って触れる機会があまりないですから新鮮でした。
夏休み ごゆっくり(笑)
本当に貴重な体験をすることができました。
素敵な動画をありがとうございます。私の母も伊勢崎町の長屋で育ちました。私も本牧のフェンスの向こうのアメリカが中学時代の原風景です。葛城先生のお話には引き込まれました。また是非このような企画の続きを楽しみにしております🤲
葛城先生のお話は淀みなく明解です。私も引き込まれてしまいました。
大変貴重なお話でしたね。
私の母は都内でしたが勤労動員で工場で働いていました。終戦は、あー終わったんだ、という喜びだったと言っていました。
「終戦」というのはホッとした人が多かったんですね。
葛城さん、貴重なお話しありがとうございました。
ご覧いただきありがとうございます。
素晴らしい特別企画動画をありがとうございます。
葛城先生のお話しはとてもわかりやすく当時の様子が目の前に見えるようでした。玉音放送を聞かれた時の先生の心情には心打つものがありました。
お話しを引き出す並木さんのインタビューが素晴らしかったです。
昭和四年生まれの亡父は根岸森林公園近くに住んでおりました。疎開をしていなかったので遠くの空き地に焼夷弾が落ちるところを庭木に登って見ていたそうです。
他の方も書いておられますが、幼少時代、横浜駅の東西通路でアコーディオン弾きの傷痍軍人の方の姿を今でも覚えています。
戦争体験を年々語り継ぐ方が少なくなっていく今、葛城先生のお話しを聴けた我々が次世代に戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えて行かなければと気付かされました。
ラバウルおばさんのイラスト、暖かく深みがありおばさんの生き様が伝わってくるようです。
9月のご投稿を楽しみにしております!
先生のお話は尽きません。まだまだ活発に活躍されています。体験談にも感服しましたが自己を顕在化させるエネルギーは、もんのすごいです。
凄く貴重な記録動画だと思います。
富岡空襲も並木さんの動画で知りました。
厚木の航空隊の反乱の話も初めて知りました。
事実を飾らず語ってくれる戦後の話はもっと知られてもいいですね
短期戦なら勝つって山本五十六かよってね、
教科書は最大公約数的な事実ですが、個人の思いはそれぞれですね。
特別企画、お疲れ様です
過去動画『山手を歩く 戦争が終わって生まれた子供たち』は、今でも印象に残ってますが、
戦後の横浜の混乱期の生の証言は、大変貴重で興味深かったです
実体験の話はリアリティを感じます。
お疲れ様です。タクシードライバーの漫画、また読みたいです!
おお、ありがとうございます。
並木さん、夏休み中なのに素晴らし動画をありがとうございます。台風7号が近づいています。気をつけてくださいね。
雨が降っています。本日(16日)は要注意ですね。
当方50代、戦争は遠い昔の歴史の出来事と思っていましたが、メリーさんや傷痍軍人の姿はしっかりと幼少期の記憶にあり、実は自分も「終戦後」を生きた世代なのだと気付かされました。貴重なお話を有難うございました。
そうですね、まだそんなに遠い昔の事では無いと思います。
貴重な原体験であり、史料動画だと思います。当時の国民のリアルな想いには説得力があります。現代人としては、ただただ最後の並木さんのナレーションに共感するのみです。大変興味深く拝聴することができました、ありがとうございました。それにしても先生のご説明や活舌は、年齢からは想像つかない程お若く理解がしやすいですね。素晴らしいです。
先生の話は論理的で非常にわかりやすいです。記憶力も私などよりずっと確かです。
素晴らしい企画でした。郷土史家先生のお話、とても興味深く聴きました。とても貴重な証言ですね。数年前に急逝した母は横浜出身で一生の大半を横浜で過ごした浜っ子です。戦争の話もよくしてくれました。私自身も結婚するまで横浜市民だったので愛着はハンパないです。野毛の闇市のこと、メリーさんなどなど実際に見たわけではないのに感慨深いです。
戦争を実体験した人たちが次々と鬼籍に入ってしまい、語り継ぐ人がいなくなると戦争の記憶も風化してしまうのでは、と案じています。
終戦直後の野毛などは興味があります。怖いけどちょっと歩いてみたいですね。
昭和20年8月、23歳の私の母も川崎の東芝で働いていました。母は玉音放送を職場で聞き戦争が終わったと皆で喜び合ったそうです。戦後は通勤経路だった伊勢佐木町を歩くたびにあっという間に飛行場ができたりカマボコ兵舎ができたりして驚いた、不二家のビルの上から米兵たちが路上の日本人をからかうので嫌だったと語っていましたね。
「銀星通り」という超懐かしい言葉がでてきてしんみりしました。葛城さんのお元気なこと素晴らしいです。これからもお体お大事になさってください。
川崎には軍需工場が多かったんですね。飛行場もカマボコ兵舎も今の横浜からは想像もつきません。先生は大変お元気ですよ。
生々しい体験談で、教科書には書かれていない貴重なお話しでした。並木さんも良い夏休みをお過ごしください。😊
先生の話を聴けたことはいい経験になりました。
並木さんはじめまして!
いつも癒されております。また今夜は貴重なお話ありがとうございます。✨
横浜〜ありがとう😂
ご覧いただきありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
とても興味深いお話をありがとうございました。
へぇ!ほぉ!というお話も多く、とても面白かったです。
私の亡父が、昭和5年生まれ、県立三中に通っていたので繋がっているのかな?と、親近感も覚えました。
何処かでまたお話を伺うことができたら、と思います。
昭和5年、三中というと葛城先生の同級生ですね。
並木さん、先生ありがとうございました。以前葛城先生から直接「やぶにらみ磯子郷土史」を購入しており、一度先生の講演をお聞きしたいと思っていました。並木さんが紹介してくださって先生の講演会があることをしりました。早速申し込みをしたいと思います。
猛暑ですので、並木さんもゆっくり夏休みをとって充電してください。また9月の動画を楽しみにしております。
先生の講演は毎月磯子の社会教育コーナーで行われています。HPには講演の事は載っていないようなのでハガキでの問い合わせ・申し込みがいいと思います。
今充電中ですが、気のせいか放電されているみたいです。
葛城さんお話ありがとうございます。
50数年前は横浜駅西口から東口に抜ける地下道にも傷痍軍人の方がいました。
近所のお年寄りは、昔の西口は砂利の山だったとも言っていました。
昔の西口には石油会社などがあり、資材も多く置かれていたようですね。
びっくりしました。
こんな時間に!と思ってしまいました😊
当日生きていた方の話には納得しますね。
凄い方ですね。近場の事が分かってきて嬉しかったです。
台風の雨が降りだしました。
今はこちらが怖いです🌀
お休みなさい。
タイトルが「8月16日」という事で16日の午前零時に公開しました。雨、降ってますね。
検索したところ、葛城先生の御著書が、横浜市の中央図書館、磯子図書館などに、20数点所蔵されていることが分かりました。岡村をはじめとした磯子区や根岸などの郷土資料のようで、とても興味深いです。読んでみたら、動画で伺ったお話の内容について、理解が深まりそうです。
私も先生を知るきっかけとなったのは「やぶにらみ磯子郷土誌」という著作でした。
並木さんこんにちは
今回の葛城先生のインタビューは大変興味深いお話でした
子供心に、なんとなく覚えている事、伊勢佐木町の裏のアメリカ兵のかまぼこハウス、飛行場があったんですか?
終戦の玉音放送は、当時疎開していた父母の故郷の宮城県で聴いても、意味は分からなく、大人たちが日本が戦争に負けた!と騒いでいました
まだまだ猛暑が続く中ゆっくり英気を養いませ。
飛行場は若葉町にありました。5年間くらい使用されたようです。
とても勉強になりました。貴重なお話でしたね☆
この動画自体、市立中の現代社会の授業の映像教材に、なりますね👍
暑い中の撮影、お疲れ様でした!
次回アップまで、Take it easy〜🎐🏖️🍧
先生は話題が豊富なのでまだまだ色々なテーマでお話をうかがう事が出来そうです。
戦争体験者の身近な岡村の話を聞けて良かったです、実際色々な考え方をされてた学校の先生が結構いたのですね、私の生まれ育った滝頭、岡村の事を先生の話なら私も一晩中聞きたいです。傷痍軍人さん、メリーさん私も見かけました。
先生の話は整然として明瞭なので聞いててよくわかります。
弘明寺の映画館
懐かしい!
私は昭和30年生まれです、小学生の頃はよく弘明寺商店街へ買い物に母と行きました、松葉杖の兵隊さんも見掛けました、まだまだ貧しい時代でしたね。映画館で加山雄三さんの
若大将シリーズを観ました!つい
懐かしくなり書かせて頂きました😂
私はゴジラを見ました。銀星座?観音座?橋のたもとの映画館には何度も行きました。
並木さん、お早うございます。
新作を今か?今かと待ちわびて居ました。
「夏休み中でも、特別企画!」と言う本編はとても面白く
有意義なお話しだったと思います。
昭和24年生まれの私が思い出す「戦後」と言えば、葛城先生の
お話しにも出て来た「傷痍軍人」達の姿を渋谷駅前で沢山
見た事でしょうか。
小学校に上がる前ですから昭和27~8年頃でしょうか・・・。
渋谷駅前?と言う事は東横線経由で母の実家が在る「黄金町」へ
行く時だったのか?或いは桜木町の叔母の家に行く時だったか?
その後の強烈な想い出というと現在の武蔵小杉辺りと、本牧の
内陸側に沢山連なっていた「米軍宿舎」でしょうか!
バイク・車に乗れる年になってからの「記憶」ですから
現在でも鮮烈に頭の中に刻まれています。
戦後生まれ・団塊世代の私たちにとって「戦争」は
何だったんでしょうか?
何はともあれ、「75年」も生きて来られたことを「感謝」
するだけの2024年8月16日で御座います。
葛城先生のHP、早速拝読しに行きます!
傷痍軍人の姿は私も微かに覚えています。あの頃はまだ「戦後」の時代だったのでしょうか。
ドウなんでしょうね~?
「戦後?」と言われても地方都市ならいざ知らず、東京生まれの
私には全くわからないでした!
物心つく頃には自宅の周りは建物ばかりでしたし、傷痍軍人も
含めて「戦後」を引きずって居る人達は見かけましたね。
葛城先生のような「戦中派」の方とは全く違った「人種」
なのかも知れません!
@@nick浜オヤジ 昭和31年に「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれましたが、80年近く経った今も「戦後」という人がいます。時代の線引きも人それぞれですね。
それこそ、葛城先生の仰る「線引き」次第で見え方も考え方も
まるで違うことになって仕舞いますね!
並木さん❤こんばんは
特別企画嬉しいです
そして、また、並木さんの絵を拝見させていただき嬉しかったです
ラバールばあさんの話しやメリーさんの
話しも楽しかったです
ラバウルばあさんの歌を聞いてみたかったです。
今年94歳の方がお話されているようにとても思えません
今認知で施設にいる87の父親から、
戦中•戦争直後の体験談等、結局聞けずに終わりました
語り継ぐ者達も努力しなければなりませんね
先生の話は明瞭で聞いていても非常にわかりやすいものでした。
何時も楽しい企画ありがとうございます。亡き父親と同じ昭和5年生まれの葛城先生、矍鑠たる語り口素晴らしいです。こうした過去歴史を我々が伺い、後世に伝えていくことはとても重要なことだと感じます。ところで、戦時中の学校の様子も各校によって随分違っていたんですね。父が通っていた中学は退役将校が赴任していて、チョッとしたことでサーベルの鞘でコツっとやられていたそうです。父が中学2年生の富士の裾野で受けた軍事教練の写真が家に残っていて、ヒョロヒョロの中学生が伸長りょりも長い木製の模擬銃をもっている姿が印象的でした。
軍人が教練を行う学校は大変だったと思います。中学生も辛かったでしょうね。
先生は御年94、5でしょうか!!
私は仕事柄お年寄りと触れる機会が多いのですが、本当にしっかりされてて驚きました。どんな秘訣があるんでしょうかね。
終戦直後のリアルを知る先生の目には、今のモノであふれる横浜の街はどんなふうに映っているんですかね。
先生は今年94才ですね。足腰もしっかりしています。酒もたばこも嗜まれるようです。正にスーパー爺さん(失礼)です。
この時間に珍しいですね
戦後79年
40年前は、校長先生含め
先生の中に空襲体験した人が当たり前のようにいました。
自分には、お爺さんがいません。
存在してましたが、(父方)戦争に行って帰って来ませんでした。
戦争に行きたくなかった訳ではなく、志願して行ったみたいです。
当時お婆さんは、大正15年産まれ
浅間下に住んでました。
家に空襲を(焼夷弾)もろに喰らって近くの神社の防空壕に逃げて助かりました。
お婆さんの家族は、造船所で働いてたので、造船所には、落ちてこなかったと言ってました。
お婆さんのお姉さんの旦那さんは、帰って来ましたが、マラリアに掛かり
耳が聴こえなくなって(少し聴こえてた)話すのが大変でした。
戦争体験者が2世代前、3世代前となりました。私も子供の頃は戦争の話をする大人もいましたが。今回は貴重な話を聞く事が出来ました。
私の上司の本牧の方に戦後直後の話をたまに聞きました、子どもの頃は米兵にチョコレートをもらったり色々楽しかったし米兵もいい人も多かった、以外と楽しい時代だったとおっしゃってました。
世相には色々な側面がありますね。
道夫さん、お疲れ様です☆ゆっくり夏を過ごされているのかと思ったら特別企画ですか!葛城先生の貴重なお話が聞けて感謝しております。戦後すぐの横浜と今の横浜ってこんなにも違うんだと戦争を知らない私にとって驚きばかりです。大変貴重な動画を配信して頂きありがとうございました😊まだまだ暑い日が続きますが道夫さんもお身体に気をつけてくださいね♪
急遽、先生とお話しできる機会を得る事が出来ました。他のテーマでもお願いしたいですね。
ウチの親が25年に横浜にで出来て商売始めて会社設立しました。こう言う語りべは横浜で生まれ育った自分や後世に語られる事が大事だと思います。
夏休みにいいプレゼントをありがとうございます!😄
昔、岡村のそばに住んでいたことがあります、懐かしい土地です😃
うちのオヤジは、関東軍で満州にいたそうです🙂
終戦間近にロシアの戦車が侵攻してきて降伏、シベリアに抑留され、幸運にも帰還したそうです😄
父が最後の戦を放棄し、降伏したおかげで私は生まれました!😊
許してはならないのは、戦争を起こした愚かな権力者たちです😠
平和運動なんかより、戦争責任を追及すべきだと思いますね!😡
岡村はいい所ですね。天満宮にもお参りに行きました。
玉音放送を聞いた時の心境や厚木の航空隊の反乱時のビラ撒きや戦後の旧軍に対する社会の変化等の学校では習わない、こう言った話しを後世に残せるのはRUclipsの良い所ですね。
オリンピックメダリストが、最近は知覧の平和会館に訪れたいと言うのが話題になりましたが、終戦記念日だけでなくこう言う話しが当たり前になれば、もっと政治に興味を持つのでは無いかと思います。
普段の並木さんの街紹介とはまた違い、会話のながれからスムーズに聞き出すセンスの良さも、今回の動画で光ってますね!
と、褒めたので…お嬢様達とのお食事会呼んで下さい、当方アレルギーや好き嫌いございませんw
いや~、お褒めいただきありがとうございます。食事会ですか、いいですねえ。最近は忙しいのか、私が誘っても、ちっとも来てくれません。
当時のオンリーさんやら、
米兵相手に生きてきた女性たちが
今や、おばあさんになりました。
磯子、杉田はなかなか色街の名残はありますね。
ハーフというブームが
エンターテイメントの戦後に
もてはやされましたが、
なにかつらいものは否めません。
磯子の色街は海軍関係者がよく利用していたようです。
先生直接のお話から、横浜が現在まで、おしゃれな街が残っているのは、人びとの意識の高さだったようですね、東京は余所者の街、金儲けの再開発で歩けるところが無くなりました、また、横浜に行きたくなりました、よい、お話でした
横浜はいい街ですね。
暫くおやすみされると聞いていましたので動画がアップされていて驚きつつ拝見しました。
有難うございます。
横浜新参者ですので、葛城先生のお話はリアルで座布団爆弾?の辺りは何とも言えない気持ちで聞いおりました。
機会があれば葛城先生の講演など、聞いてみたいです。
先生は毎月磯子の横浜市社会教育コーナーで講演されています。興味があればぜひ。
@@namiki-michio
コメント拝見するのが遅くなりました。情報有難うございます。早速、探してみます。
有難うございました!
傷痍軍人とメリーさん、伊勢佐木町で見た記憶がかすかにあります。
わが母校、関東学院が憲兵隊ににらまれていたとは知りませんでした。憲兵の「神」とキリスト教の「神」は明らかに違う。あの学校、ブルジョア階級の子供が多かったかと。
関東学院に残っている歴史的校舎が何となく物語っているようにも思えます。
子供に座布団爆雷か。相当危ない国だな
その世代は軍国主義から民主主義にかわり、その地域で教わってることも違ったんですね。昭和5年生まれの母は歴代の天皇全ていえると言ってた。自分は歴史が苦手さっぱりわかりませが、急速に世の中が変わった時代だったのかな。
昔の人は勅語を暗唱していたようです。歴代天皇も暗唱されたようですね。
横浜はアメリカとの開港で出来た街なので生のアメリカの情報を知っている場合が多く、戦争に勝てると思っていた人が他所に比べて少なかったと聞いた事があります。国民酒場の看板は90年代にはまだ見かけました。
看板だけなら「国民酒場」は今もありますね。
@@namiki-michio さま そうですか!私の住む界隈では無くなりましたが、流石に色々な所をお訪ねになっている成果ですね。
79年目ではありません。79年後です。